专栏

ドメーヌ・コント・ジョルジュ・ド・ヴォギュエ Domaine Comte Georges de Vogüé

科尔顿山

 1975年に創刊した英・デキャンタ誌は長らく、誌面の巻末にファインワインの価格動向指数を掲載していました。高級ワインへの投資が一部の富裕な愛好家に限られていた1980年代から1990年代にかけて、ボルドー両岸のトップシャトーがすべて網羅されていた一方、ブルゴーニュから指標に選ばれていたのはロマネ・コンティとラ・ターシュ、そしてドメーヌ・コント・ジョルジュ・ド・ヴォギュエのミュジニー・キュヴェ・ヴィエイユ・ヴィーニュの3銘柄のみでした。

歴史

 コント・ジョルジュ・ド・ヴォギュエは、中世まで遡る長い歴史をもつドメーヌです。シャンボール村の教会には、当時のドメーヌ所有者であったジャン・モワッソンが1450年、教会建設のための寄付を行った記録が残っています。1528年、彼の孫娘がディジョンの商人であったミシェル・ミリエールに嫁いだとき、彼女は現在のドメーヌの主要部分を持参金としてミリエール家にもたらしました。この結婚契約書にはミュジニーのブドウ樹も含まれており、これが “Musigny” という畑名が記されている、現存する最古の書面です。
 1575年になって、ミリエール家の娘がブルゴーニュ議会の有力な議員であったブーイエ家に嫁ぎ、さらに1766年になって、末裔のカトリーヌ・ブーイエ・ド・ヴェルサリューが、フランス南東部ヴィヴァレ出身の貴族スリス=フランソワ・メルシオール・ド・ヴォギュエに嫁いだことで、ドメーヌがド・ヴォギュエ家に継承されました。現在のドメーヌ名であるジョルジュ・ド・ヴォギュエ伯爵がドメーヌを継承したのは6世代下がった1925年のことで、同伯爵が1987年に亡くなってからは娘のエリザベート・ベルトラン・ド・ラドゥセット男爵夫人に引き継がれました。現在のドメーヌはエリザベートのふたりの娘、クレールとマリー・ド・ラドゥセットが不在地主として共同所有しています。
 所有者がド・ヴォギュエ家である一方、ドメーヌの実際の経営管理を務めてきたのはルーミエ家に連なる人々でした。ジョルジュ・ド・ヴォギュエがドメーヌを継承したときの管理者はジョルジュ・ルーミエだったのですが、彼の義理の父や祖父も、同じ職を奉じていました。ジョルジュ・ルーミエの長男のアランが1986年に引退した後は、エリザベートの義理の息子にあたるジェラール・ド・コッサンが営業と財務会計を担当したのですが、癌に侵され、長く続きませんでした。ワインの品質は1970年代から1980年代初頭にかけて低下したのですが、1986年に醸造長のフランソワ・ミエ、1988年に販売担当のジャン=リュック・ペパン、1996年に栽培担当のエリック・ブルゴーニュが着任し、かつての栄光を取り戻しました。

ブドウ畑

 もしコート・ドールに村ごとの格付けがあるとすれば、シャンボール・ミュジニーはヴォーヌ・ロマネとジュヴレ・シャンベルタンに次ぐと考えられています。ドメーヌ・コント・ジョルジュ・ド・ヴォギュエが所有するブドウ畑は12.6 ヘクタール(ha)で、すべてシャンボール・ミュジニー村に所在し、うちグラン・クリュが9.9 haを占めています。
 AOCミュジニー・グラン・クリュは、レ・グラン・ミュジニー (またはレ・ミュジニー、5.90 ha)、レ・プティ・ミュジニー (4.19 ha)、ラ・コンブ・ドルヴォー(0.77 ha)の3つのクリマから成りますが、レ・プティ・ミュジニーはド・ヴォギュエのモノポールで、ラ・コンブ・ドルヴォーのグラン・クリュ部分はドメーヌ・ジャック・プリウールの単独所有となっています。ミュジニー・グラン・クリュの総面積10.85haのうち、ド・ヴォギュエは65%を超える7.12 haを所有しており、「ヴェルヴェットの手袋をはめた鋼鉄の拳」と表現される、口当たりは柔らかいけれども享楽的な味わいを拒否する、固い骨格のワインが生産されてきました。
 ド・ヴォギュエはブドウ樹の樹齢に強いこだわりがあり、特級畑ミュジニーから収穫されたピノ・ノワールのうち、樹齢が十分ではないと考える区画のワインはシャンボール・ミュジニー・プルミエ・クリュに格下げしています。2024年ヴィンテージ時点では、1994年から2007年に植え替えられた区画がこれに当たります。地図の右下にミュジニーの拡大図があるのですが、二か所ある黄色の部分(0.66 ha)にはシャルドネが植えられ、ミュジニー・ブランが醸造されています。この区画は1986年から1997年にかけて大規模に植え替えが行われ、結果として1994年から2014年ヴィンテージまではラベルに「ミュジニー・ブラン」と表示せず、「ブルゴーニュ・ブラン」に格下げして瓶詰めされてきました。1993年ヴィンテージのブルゴーニュ・ブランは非常に低樹齢のシャルドネから醸造され、村名赤ワインのシャンボール・ミュジニーと同価格でドメーヌから出荷されました。植え替え後に初めて「ミュジニー・ブラン」とラベル表示されたのは、2015年ヴィンテージです。

<ドメーヌの門を入ると、ルネサンス風の中庭が広がる。>

 ド・ヴォギュエが所有するもうひとつのグラン・クリュはボンヌ・マールです。長方形をした15.06haのボンヌ・マールの畑は、対角線に走る畦道によって二分されており、この斜面上部の表土が白っぽいことからテッレ・ブランシュ(terres blanches)、下部の表土が赤っぽいことからテッレ・ルージュ(terres rouges)と呼ばれています。テッレ・ルージュのワインは色が濃く、角ばって男性的である一方、テッレ・ブランシュの方は洗練されているとされています。ド・ヴォギュエはボンヌ・マールにおいても最大の区画所有者なのですが、所有する2.70 haのほとんどはテッレ・ルージュの南東端にあり、ミュジニーとは一線を画す、おだやかな味わいのワインが醸造されてきました。
 ドメーヌでワインを試飲する際に、最後に供出されるのはミュジニーおよびミュジニーの若木から醸造されたシャンボール・ミュジニー・プルミエ・クリュですが、その前に供出されるのはグラン・クドメーヌの門を入ると、ルネサンス風の中庭が広がる。

<Les Grands Musigny南端のド・ヴォギュエの区画>

リュのボンヌ・マールではなく、プルミエ・クリュのレ・ザムルーズです。「ボンヌ・マールは味わいが異なるから」と説明されるのですが、地図を見るとその理由がよく理解できます。レ・ザムルーズ(5.4ha)のクリマの斜面下には湧き水があり、地下水脈が高いところにあるのが理解できます。このため、斜面下部の区画を所有するロベール・グロフィエのワインが繊細なスタイルになりがちなのに対し、所有する0.56 haのほとんどがレ・グラン・ミュジニーに隣接するド・ヴォギュエのものは堅牢な味わいで、ミュジニー・グラン・クリュ同様に飲み頃が難しいワインです。

 ド・ヴォギュエはミュジニーやボンヌ・マール、レ・ザムルーズ以外に、一級畑のレ・フュエ(0.14ha)とレ・ボード(0.13 ha)、それに1.8 haの村名畑を所有しています。シャンボール・ミュジニー・プルミエ・クリュが特級畑ミュジニーの若木から醸造される一方、村名のシャンボール・ミュジニーは村名畑と、レ・ザムルーズを除く一級畑の2.08 haから醸造されています。ド・ヴォギュエのワインは堅い味わいが特徴で、なかなか飲み頃が来ない、飲み頃を判断するのが難しいワインですが、比較的やさしい味わいの村名ワインが先行指標となるため、個人的にはミュジニー・キュヴェ・ヴィエイユ・ヴィーニュを購入したヴィンテージでは、村名ワインも一緒に購入するようにしています。
 ド・ヴォギュエは12.6 haのブドウ畑を所有する大ドメーヌなのですが、たった6種類のワインしか出荷していないため、1アイテムあたりの生産量が多く、価格が安定しています。

<ジャン・ルパテッリ>

栽培と醸造

 ラベル上には表示されていないものの、栽培担当であったエリック・ブルゴーニュは有機栽培の手法で畑を管理してきました。化学肥料や除草剤は使わず、雑草は鋤で取り除いています。樹齢と同様、ド・ヴォギュエではブドウ樹の収量管理を重要視しており、厳しい冬季剪定、摘芽や摘芯、必要があれば夏期剪定も行って、1 haあたりの収量が30ヘクトリットル(hl)を超えることがないように調整しています。ブドウ樹の畝の北側や東側では、果房の周りの葉を取り除き、空気の通りを良くして、カビを防いでいます。
 厳しい収量制限も一因として、ド・ヴォギュエはシャンボール・ミュジニー村でもっとも早くに収穫を開始する生産者です。過熟したニュアンスよりも、洗練されたフレッシュ感のある味わいを求めているためなのですが、これが結果として、堅い味わいをワインにもたらしています。
 1986年に醸造長としてド・ヴォギュエに採用されるまで、フランソワ・ミエはディジョン大学卒業後、12年間に亘って醸造コンサルタントとして数々のセラーで働いてきました。彼は収穫されたピノ・ノワールを、破砕しないように細心の注意を払いながら100%除梗し、二酸化硫黄を加えたのちにオーク製の発酵タンク内で、10 ~ 15℃程度の低温でアルコール発酵前の浸漬を行いました。数日後に自然にアルコール発酵が始まると、34 ~ 35℃を上限とした高温で発酵と抽出を行い、発生する二酸化炭素によって液面に浮上してくる果皮をピジャージュ(パンチング・ダウン)やルモンタージュ(ポンピング・オーバー)によって液中に沈めました。
 アルコール発酵終了後、短期間のエクステンデッド・マセレーション(後醸し)を経て、フリーラン・ワインとプレス・ワインに分離します。プレス・ワインは必要に応じて、瓶詰め前にブレンドすることになります。

<発酵タンク>

<2024 年はミルデュー(ベト病)の蔓延により平年の3分の1しか生産できなかったため、バレル・ルームはスカスカ。(2025 年6月撮影)>

<2023 年ヴィンテージの試飲。レ・ザムルーズはボンヌ・マールの後に供出される。>

 醸しの終わったワインは、アリエ産のオーク樽で18 ヶ月程度熟成が行われるのですが、新樽比率は低めで、収穫年によりグラン・クリュで35 ~ 40%程度、プルミエ・クリュで20 ~ 30%程度、村名で最大15%程度です。樽に詰められたワインは、中世から続いている地下のバレル・セラーで熟成が行われるのですが、フランソワ・ミエはマロラクティック発酵が収穫の翌春まで起こらないよう、温暖な秋には冷房で室温を低くしていました。
 2021年末に引退したフランソワ・ミエの後を継いだのは、ニュイ・サン・ジョルジュのドメーヌ・ドゥセル・ヴィラで醸造責任者を務めていたジャン・ルパテッリで、フランソワ・ミエの手法を尊重する一方、時代に即した改革にも着手しています。一例として、収穫時にブドウを運搬する箱を、底の浅い20 kg入れのものに変更してブドウのダメージを防いだり、発酵タンクにブドウを入れるに際してはポンプを使うのをやめ、ブドウが潰れないように重力で移動させています。また、ピノ・ノワールの果梗を100%除梗していたミエに対し、現在では50%程度を全房のまま発酵タンクに入れるようになりました。また、ミエが意図的にマロラクティック発酵の開始を遅らせていたのに対し、ルパテッリは他のドメーヌと同様に、アルコール発酵に引き続いて行うようにしています。ルパテッリが醸造した近年のヴィンテージでは、ミエの頃にあったピノ・ノワールの堅牢さが和らいでいるように感じます。
 販売担当のジャン=リュック・ペパンは、70歳になった2025年に引退したのですが、この重責を引き継いだのもジャン・ルパテッリでした。彼は同年、エリック・ブルゴーニュの後任として、ヴァンサン・マアランを栽培管理者に任命しています。

 デキャンタ誌の創刊当初、巻末のファインワイン価格動向指数にブルゴーニュから選ばれていたのはロマネ・コンティとラ・ターシュ、そしてドメーヌ・コント・ジョルジュ・ド・ヴォギュエのミュジニー・キュヴェ・ヴィエイユ・ヴィーニュの3銘柄のみでした。私はその指標を見るたび、「なぜド・ヴォギュエのミュジニーなのだろう?」と疑問に感じていました。ロマネ・コンティ(1.81 ha)は別格として、価格指数に用いるためには極端な値動きを避けるため、ラ・ターシュ(6.06 ha)のように、ある程度の生産量が必要なことは明白でした。しかしながら、畑の広さだけを考えれば、ド・ヴォギュエがミュジニーに所有する7.12 haよりも広い、ほぼモノポールのクロ・デ・ランブレイ(8.84 ha)や、モノポールのクロ・ド・タール(7.53 ha)でもよかったはずです。畑の格からいえば、シャンベルタンやクロ・ド・ベーズの方が分かりやすかったかもしれませんが、代表的生産者であるアルマン・ルソーはそれぞれ2.56 haと1.42 haしか所有していません。ドメーヌ・ピエール・ダモワはクロ・ド・ベーズに5.36haを所有していますが、このドメーヌは長らく低迷していました。こう考えてくると、当時のデキャンタ誌の選択の妥当性が理解できると同時に、現在においてもブルゴーニュの赤ワインから価格動向指数に用いる銘柄を3つだけ選べといわれたら、同じ選択に落ち着くように思います。

トップ画像:ドメーヌの自社畑