コラム

クロ・パラントゥ: アンリ・ジャイエが蘇らせた畑

コルトンの丘

フランスを代表するワイン雑誌であるラ・レヴュ・ド・ヴァン・ド・フランスは、「別格扱いすべきコート・ドールの8つのプルミエ・クリュ」を発表しています。この8つのプルミエ・クリュには、グラン・クリュに格上げされるべきとされるジュヴレ・シャンベルタン村のクロ・サン・ジャックやシャンボール・ミュジニー村のレ・ザムルーズなど、8つの著名コミューヌからひとつずつ、その村を代表する一級畑が選ばれています。しかしながら、今日の消費者が「選ばれて当然」と感じる一方、1936年に公的な格付けを行った原産地統制呼称委員会の担当者たちが顔をしかめるのは、ヴォーヌ・ロマネ村のクロ・パラントゥです。

歴史的評価

クロ・パラントゥは、特級畑リシュブールの斜面上方に位置する、1.01ヘクタール(ha)の小さな一級畑で、北側は特級畑リシュブールを構成するクリマ(区画)のヴェロワイユに接し、南側はやはり一級畑のレ・プティ・モンに隣接しています。1827年に作成された土地台帳には、現在とほぼ変わらない形でクロ・パラントゥが登記されています。北東方向に傾斜しているため畑は冷涼で、表土は薄く、石灰岩の多い土壌です。畑に直接通じる農道がないためトラクターを入れることができず、アンリ・ジャイエはクロ・パラントゥを馬で耕していました。ワインは隣接するリシュブールよりもアルコール度数が低く、酸度が高くなる傾向があります。
原産地統制呼称法に先立つこと81年、1855年出版の『コート・ドール県のブドウ樹および偉大なワインに関する歴史と統計』において、植物学者のジュール・ラヴァル博士が行ったヴォーヌ村の格付けは、特に地質に着目し、畑を5段階に評価する方法を取りました。特級ワイン(テート・ド・キュヴェ)に選ばれたのはロマネ・コンティとリシュブール、ラ・ターシュとラ・ロマネの4つで、一級ワイン(プルミエール・キュヴェ)に選ばれたのはロマネ・サン・ヴィヴァンやラ・グラン・リュといった、現在グラン・クリュに格付けされている畑だけでなく、レ・マルコンソールやレ・ボー・モン、オー・ブリュレやレ・スショなどの、現在の一級畑も含まれていました。ラヴァルの格付けでは、クロ・パラントゥは三級ワインでしかなく、オー・ショームやレ・オート・メズィエール、オー・レアなどが含まれる二級ワインにも選ばれませんでした。ラヴァル博士の格付けから眺めれば、「別格扱いすべきヴォーヌ・ロマネ村のプルミエ・クリュ」はレ・マルコンソールやオー・ブリュレであるべきで、クロ・パラントゥの名前が挙がること自体、寝耳に水です。
ジュール・ラヴァルの格付けから65年後の1920年、ラ・コンフレリー・デ・シュヴァリエ・デュ・タストヴァン(ブルゴーニュ利き酒騎士団)創設者のひとりであるカミーユ・ロディエは『ブルゴーニュワイン』を出版し、コート・ドール県のワインを詳述しています。ロディエが行った格付けはラヴァルの手法を踏襲する一方、内容を一般化してガイドブック仕立てとし、印刷技術の進歩も相まって、写真やカラー地図も用いています。ラヴァルがヴォーヌ村のブドウ畑を5段階に評価した一方、ロディエは4段階とし、クロ・パラントゥを上から3段階目の二級ワインとしました。ロディエもラヴァルと同じく、レ・マルコンソールやレ・ボー・モン、オー・ブリュレやレ・スショなどの方を高く評価しています。
1936年に原産地統制呼称委員会がヴォーヌ村の公的な格付けを行った際、参照したラヴァルやロディエの著作の影響からか、クロ・パラントゥはリシュブールに隣接しているにもかかわらず、一級畑に選ばれず、村名畑とされました。一級畑に昇格するためには、アンリ・ジャイエによる1953年の申し立てを待たねばなりませんでした。

アンリ・ジャイエ (1922 – 2006)

クロ・パラントゥが現在のような名声を得るのは、アンリ・ジャイエが関与するようになった1950年代より後のことです。19世紀末のフィロキセラ禍以降、クロ・パラントゥの大部分ではブドウ栽培が行われず、畑は捨て置かれて藪になっていました。また、第二次世界大戦中は食料自給のために、一部でキクイモが栽培されていました。クロ・パラントゥでのワイン生産再開に際し、アンリ・ジャイエは大変な苦労をしたようで、ブドウを植樹するため、400発を超えるダイナマイトで巨大な石灰岩を砕かなければなりませんでしたし、キクイモの根は地中深くに伸びていたため、取り除くのが大変でした。アンリ・ジャイエがクロ・パラントゥの最初の区画をロブロ家から取得したのは1951年でしたが、こうした整地に苦労し、ピノ・ノワールの植樹を始めることができたのは1953年になってからでした。
1976年ヴィンテージ以前、アンリ・ジャイエは醸造したワインのほとんどをネゴシアンに売却していました。ベルギーのカーヴ・デズィリー社とアレキシス・リシーヌ社の取り扱いが知られており、この二社は「アンリ・ジャイエ」の名前を生産者としてラベル上に表示していました。「クロ・パラントゥ」の名前が初めてラベル上に現れたのは、アンリ・ジャイエがドメーヌ元詰めを始めた1978年ヴィンテージであると考えられています。これ以前のヴィンテージでは、クロ・パラントゥの畑からのワインはヴォーヌ・ロマネの村名として売られていました。
1.01 haのクロ・パラントゥは現在、0.7177 haをエマニュエル・ルジェが代表するジャイエ家が所有し、残りの0.2950 haをドメーヌ・メオ=カミュゼのカミュゼ家が所有しています。アンリ・ジャイエは1950年代から1988年までドメーヌ・メオ=カミュゼの折半耕作人であったため、メオ=カミュゼが自社ラベルでの瓶詰めを始める1984年ヴィンテージまで、クロ・パラントゥは事実上、アンリ・ジャイエのモノポール(単独所有畑)でした。ドメーヌ・メオ=カミュゼの持ち分のクロ・パラントゥに関して、アンリ・ジャイエとの折半耕作契約は1988年ヴィンテージで終了しています。折半耕作の期間中、メオ=カミュゼの持ち分から醸造されたクロ・パラントゥの赤ワインは、その半分が地代としてドメーヌ・メオ=カミュゼに支払われ、残りの半分はアンリ・ジャイエのセラーに残りました。ドメーヌ・メオ=カミュゼのラベルが貼られた1988年ヴィンテージまでのクロ・パラントゥを醸造したのは、アンリ・ジャイエ本人です。
一方、1989年ヴィンテージ以降、アンリ・ジャイエの甥のエマニュエル・ルジェはジャイエの持ち分のクロ・パラントゥの一部を折半耕作し、ドメーヌ・エマニュエル・ルジェのラベルで出荷を始めます。アンリ・ジャイエは、公的には1995年ヴィンテージで引退したのですが、2001年までごく少量のワインをドメーヌ・アンリ・ジャイエのラベルで造り続けました。1996年以降のクロ・パラントゥには、ラベルの左上に ‘Réserve’ と表示されています。
アンリ・ジャイエの完全な引退に伴い、2001年がドメーヌ・アンリ・ジャイエのラベルでのクロ・パラントゥの最後のヴィンテージとなりました。2002年以降はドメーヌ・エマニュエル・ルジェとドメーヌ・メオ=カミュゼの二種類のラベルのみが存在し、年間生産量は750mlボトル換算で3,000~4,000本ほどです。どちらも非常に高品質な赤ワインですが、メオ=カミュゼのものは抽出が強くて硬い、モダンなスタイルである一方、エマニュエル・ルジェのワインはジャイエのスタイルを踏襲した、エレガントで柔らかな味わいです。

さて、ジュール・ラヴァル博士やカミーユ・ロディエが、レ・マルコンソールやレ・ボー・モン、オー・ブリュレやレ・スショを高く評価したのに対し、ラ・レヴュ・ド・ヴァン・ド・フランス誌がクロ・パラントゥをヴォーヌ・ロマネ村の最上の一級畑としたのはなぜなのでしょうか。答えは簡単で、ラヴァルやロディエがブドウ畑の潜在力を格付けしたのに対し、ラ・レヴュ誌は流通しているワインの質の平均点を評価したのだと思います。クロ・パラントゥがブルゴーニュを代表する最上の生産者二社によって耕作・醸造されているのに対し、例えば面積が13 haを超えるレ・スショは21のドメーヌに分割所有されており、所有者のすべてが優良な生産者というわけではありません。好条件の畑のワインのすべてが素晴らしいわけではなく、優良な生産者の手によって初めて、心に残るワインが生まれています。

ヴォーヌ・ロマネ村の地図
https://vosne-romanee.fr/

クロ・パラントゥの写真
https://vosne-romanee.fr/appellation/cros-parantoux

参考文献:
Lavalle, M. J., ‘Histoire et statistique de la vigne des grands vins de la Côte d’Or’ (1855)
Rodier, C., ‘Le Vin de Bourgogne’ (1920)
Rigaux, J., ‘Ode aux grands vins de Bourgogne: Henri Jayer, vigneron à Vosne-Romanée’ (1997)
Meadows, A. D., ‘The Pearl of the Côte’ (2010)
Öhman, S., ‘Cros Parantoux – the sweet spot of Richebourg’ (2014)
Baghera/wines, ‘Henri Jayer: the heritage’ (2018)
Öhman, S., ‘The Henri Jayer Insight – Cros Parantoux the area and production’ (2018)