コラム

ドクター・バロレ・コレクション

コルトンの丘

古伊万里とは一般に、江戸時代に作陶された有田焼を指し、英語では「オールド・イマリ」と呼ばれています。「ポート」や「ボルドー」と同じく、積み出し港である「伊万里」の名前がつけられた日本を代表する芸術は、長く世界中で愛されてきたため、私は出張先で時間をみつけてはアンティークショップへ立ち寄り、300年以上も前に日本で作られた極彩色の食器が、ボストンやナポリの街角に並んでいる経緯に空想を馳せます。先日、アムステルダムのアンティーク街で、近年に作られた古伊万里の模造品が「オールド・イマリ」と表示されて、古伊万里同然の価格で販売されていたため、店主に事情を尋ねてみたところ、「オールド・イマリは300年以上前に作られたものを指すのではなく、こうした陶器のスタイルを指すのだ」という答えでした。

バロレ社

20世紀後半まで、ブルゴーニュのほとんどのワイン生産者は自家で瓶詰めを行わず、発酵が終わったワインを樽に入った状態でネゴシアン(酒商)に売却し、収入を得ていました。ネゴシアンは生産者から購入したワインを熟成・瓶詰めし、自社のラベルを貼って販売していました。アルテュール・バロレ・エ・フィス社 は1830年設立の小規模なネゴシアンで、主にベルギーの裕福な顧客に直接、高品質のワインを販売していました。
1898年に生まれたアルベール・バロレ(ドクター・バロレ)は、医業のかたわら、父親から引き継いだネゴシアンも経営していたのですが、彼は事業を拡大することにあまり興味はなく、もっぱら、良質のワインを樽で購入して、ボーヌの城壁沿いのセラーで熟成させていました。彼は収穫が終わるといち早く優良な生産者を訪れ、樽に入ったワインをひと通り試飲したうえで、凝縮して濃厚なワインの樽を選んで購入したといわれています。彼が生涯独身のまま1969年に亡くなった時、セラーには1911年から1966年に及ぶブルゴーニュ16万本と、まだオーク樽で熟成中のワイン200樽 が残されていました。

ドクター・バロレ・コレクション

アルベール・バロレの死後、アルテュール・バロレ・エ・フィス社の在庫と商標は、相続人である二人の姉によって大規模ネゴシアンのアンリ・ド・ヴィラモン社に売却され、彼の残したワインの一部は1969年12月、英・クリスティーズによってオークションにかけられます。競売を担当したワイン鑑定家のマイケル・ブロードベントによれば、セラーに残されていたワインの質は一様ではなく、高品質のものもあれば、すでに飲み頃を過ぎていたものもあったようです。彼は試飲により、在庫の中から最上のロットを選び、1911年から1959年ヴィンテージにおよぶ約1万8千本を競売にかけました。アルベール・バロレが医師であったことから、ブロードベントはこのオークションに『ドクター・バロレ・コレクション 』というタイトルをつけました。アルベール・バロレの残したワインはこれ以降、世界中のオークションで高値で取引されるようになったのですが、狭義の「ドクター・バロレ・コレクション」は、ブロードベントが競売用に選んだ1万8千本を指します。その後、アルテュール・バロレ・エ・フィス社を買収したアンリ・ド・ヴィラモン社は、同社名や同社のブランドのひとつであるフランソワ・マルトノ、およびアルテュール・バロレの名前で、クリスティーズのオークションに付されなかった残りの大部分を販売します。これが、広義の「ドクター・バロレ・コレクション」です。

現在、インターネット上で「バロレ・コレクション」を検索すると、ドクター・バロレが亡くなって以降のヴィンテージのワインが、「バロレ・コレクション」の名前で普通に販売されているのに驚かされます。これは主に、アルテュール・バロレ・エ・フィス社を買収した会社が「コレクション・アルテュール・バロレ・エ・フィス」というブランド名でワインを販売しているからです。アムステルダムの街角で「古伊万里」を手に取ったとき、私はこの「バロレ・コレクション」のことを思い出していました。

1 「アルテュール」の英語読みは「アーサー」
2 ひと樽の容量は228リットル。
3 ラベル上にはフランス語で、“Collection du Docteur Barolet” と記された。 

写真: 
Clos de la Roche 1921 Collection du Docteur Barolet / Henri de Villamont
(写真提供: 代官山ワインサロン Le luxe)